真言宗豊山派の歴史
真言密教は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の大成という形で7世紀ごろのインドで始まり、やがて中国に伝えられます。弘法大師は延暦23年(804)に長安(現在の西安)にわたり、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より真言密教のすべてを授(さず)かり、帰国されました。
弘法大師によって開宗された真言宗は、東寺(教王護国寺)や高野山(金剛峰寺)を中心として広められました。平安の末期には中興の祖である興教大師(こうぎょうだいし)によって根来寺(ねごろじ)が創建されました。鎌倉時代になり、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)が成立し、根来寺を中心に栄えましたが、専誉僧正(せんよそうじょう)をはじめ僧侶達は戦国時代の戦渦により、根来寺を離れることとなりました。
その後において、豊臣秀長公に招かれた専誉僧正は、奈良の長谷寺(はせでら)において、豊山派(ぶざんは)を興します。豊山派の派名は長谷寺の山号(さんごう)である豊山に由来しています。
江戸時代になると、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)公の生母である桂昌院(けいしょういん)が護国寺(ごこくじ)を建立し、護国寺は豊山派の江戸の拠点として末寺(まつじ)を増やしました。
よって豊山派は宗祖を弘法大師、中興祖を興教大師、派祖を専誉僧正とし、総本山は長谷寺、大本山を護国寺としています。宗団の規模は現在は、全国に3,000カ寺、僧侶数5,000人、檀信徒数200万人となっています。
弘法大師によって開宗された真言宗は、東寺(教王護国寺)や高野山(金剛峰寺)を中心として広められました。平安の末期には中興の祖である興教大師(こうぎょうだいし)によって根来寺(ねごろじ)が創建されました。鎌倉時代になり、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)が成立し、根来寺を中心に栄えましたが、専誉僧正(せんよそうじょう)をはじめ僧侶達は戦国時代の戦渦により、根来寺を離れることとなりました。
その後において、豊臣秀長公に招かれた専誉僧正は、奈良の長谷寺(はせでら)において、豊山派(ぶざんは)を興します。豊山派の派名は長谷寺の山号(さんごう)である豊山に由来しています。
江戸時代になると、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)公の生母である桂昌院(けいしょういん)が護国寺(ごこくじ)を建立し、護国寺は豊山派の江戸の拠点として末寺(まつじ)を増やしました。
よって豊山派は宗祖を弘法大師、中興祖を興教大師、派祖を専誉僧正とし、総本山は長谷寺、大本山を護国寺としています。宗団の規模は現在は、全国に3,000カ寺、僧侶数5,000人、檀信徒数200万人となっています。
真言宗のおしえ
真言宗の教えは、弘法大師によって完成をみました。その教えとは、即身成仏(そくしんじょうぶつ)に求められます。それは、自分自身を深く見つめながら、全ての人が本来持っている「仏のような心で(仏心)」「仏のように語り(限りない人格)」「仏のように行う(さとりの世界)」を「今このとき」に呼び起こすということなのです。この教えをもとに、人々がともに高めあい、世界の平和がもたらされ、理想のところとする密厳仏国土(みつごんぶっこくど)が完成するのです。
ご本尊
真言宗のご本尊(ほんぞん)は大いなる智慧(ちえ)と慈悲(じひ)をもって、すべてのものを照らす根本(こんぽん)の仏さまである大日如来(だいにちにょらい)です。それぞれにご縁のある仏さまへの信仰も、すべて大日如来につながっており、多種多様な仏さまは、大日如来の身を変えた姿なのです。
曼荼羅
曼荼羅(まんだら)とは、広くものをみて互いを認め合う慈悲(じひ)の心をあらわす胎蔵法曼荼羅(たいぞうほうまんだら)と人生を深める智慧(ちえ)の光があらわされている金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)のことを指します。これは、大日如来を中心に宇宙に遍満(へんまん)する生きとし生けるものの「いのち」を仏身の姿として、描き出したものです。
真言八祖両界曼荼羅図
※共に江戸時代後期
お経
真言宗が根本とする経典は、『大日経(だいにちきょう)』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』です。また、法要(ほうよう)の中で唱えられる主なお経は『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』『般若心経(はんにゃしんぎょう)』『観音経(かんのんぎょう)』などです。さらに特徴としては経文(きょうもん)に節(ふし)をつけて唱える「声明(しょうみょう)」や『光明真言(こうみょうしんごん)』に代表される真言や陀羅尼(だらに)を唱えることです。